柳寛順(ユ・グァンスン)
柳寛順 は、1902年11月17日に
忠清南道(チュンチョンナムド)天安郡(チョナングン、現・天安市)
龍頭里(ヨンドリ)で生まれました。
柳寛順の家は、代々の名家であり、
生家は鷹峰山を背に見渡すかぎりの田園が広がっています。
天安郡は、洪水や雪の被害もなく、気候もおだやかで、
りんご、梨、ブドウなどの果実が実る広々とした場所です。
父は柳重権(ユ・ジュングォン)、母は李少悌(イ・ソジュ)で、
5人兄弟の2番目の娘です。
柳寛順の父柳重権は、
貧しくて書堂に行けなかった子どもや、
女子を教育するために学校や教会を建てるために、
全財産をなげうったと聞きます。
家は貧しかったのですが、
1916年、キリスト教メソジスト派の
米国人女性宣教師アリス・シャープの援助によって
ソウル(当時、京城)の梨花学堂(イファハクドン、現在の梨花女子大学)
に普通科3年生として編入し、1918年3月には高等科に進学しました。
当時の朝鮮は、日本を始めとした
帝国主義の列強の侵略に立ち向かいつつ、
前近代的な社会体制を乗り越えて、
自主的な近代化を成し遂げようとしていたときでした。
列強の侵略とともに西洋文化が入り、
社会情勢の変化のなか、女性の教育が要求され、
女学校建設が全国に広がり、1910年には42の女子学校が設立されました。
柳寛順が高等科の学生の時、
1919年1月22日に朝鮮の前王、高宗が逝去されました。
毒殺の風聞が流れ、反日感情が高まり、
3月3日の高宗の国葬に向けて、全国から人々がソウルに集まってきました。
今まで地下組織で活躍してきた33人の天道教、キリスト教、仏教の指導者と
学生指導者を代表とする朝鮮独立運動家たちが、
自主、独立を盛った独立宣言文を作成しました。
3月1日午後2時に33人は、
仁寺洞の朝鮮料理店、明月館支店で
朝鮮独立宣言文を朗読して、万歳を叫びました。
ソウル、平壌をはじめとして、独立万歳デモは全国に広がり、
延べ200万人が参加する、全民族的な運動となりました。
柳寛順は、このあとも3月5日、学生たちだけのデモに参加しました。
日帝はこの事態におどろき、すぐさま学校を休校にしました。
総督府から臨時休校の指令が下ると、
学生たちは独立宣言文をもってすぐに帰郷しました。
柳寛順も3月13日に天安市芝霊里に帰り、
教会と学校を訪ね、ソウルでの独立万歳運動の詳細を伝え、
地元の有力者に働きかけて説得し、
4月1日(陰暦3月1日)、地元の並川市場(ピョンチョンシジャン)にて
独立万歳運動ののろしを上げました。
4月1日(陰暦3月1日)
地元の並川(アウネ)に集まった群集に
独立運動の演説を行い、デモ行進を行いました。
この時、柳寛順は弱冠16歳でした。
そのデモ行進で、父、重権は、
憲兵隊の発砲により被弾し、三日後に死亡します。
母の李少悌も、夫の恨みをはらすために、
デモ隊の先頭に立ち、憲兵隊に斬殺されました。
柳寛順は、デモの首謀者として日帝に逮捕され、
後にソウルの西大門刑務所に移送されました。
一審では、デモを主導した罪で、懲役3年が宣告されましたが、
椅子を検事に投げつけるという事件を起し、
4年の刑期が追加求刑、宣告された刑期は3年でした。
柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、
これが刑量になりました。
減刑があり、最終刑量は1年6ヶ月となりました。
その後も3.1運動一周年を記念して
大規模な獄中デモを主導するなど
抵抗を続けたので独房に入れられます。
独房は、たたみ半畳、高さ1.5メートル弱です。
立つことも、寝ることもできません。
手に熱湯をかけられ、爪を剥がされ、
ジャッキのようなもので押しつぶされ、
あらゆる拷問にかけられたそうです。
それでも、自分の信念を曲げず
最後の最後まで抵抗しました。
釈放まで2日を残す
1920年10月12日(旧暦9月28日)
デモ現場で負った傷と独房生活がもとで
西大門刑務所内で病死しました。
17歳の若さでした。
その後1962年、韓国政府が
その功績を認めて建国勲章を授与し、
独立烈士と呼ばれるようになりました。
天安市の生家近くに、
柳寛順烈士記念祠堂が設けられ、
ソウル市西大門刑務所も
歴史館として一般公開されています。
少し古い(2004年)ネタですが、
女性向け新聞の『ウーマンタイムス』が
「10万ウォン新紙幣」のモデルに最も相応しい女性人物は誰かを
17代国会の女性議員39人にアンケート調査を行った結果、
回答者の半数に近い40.6%(13人)が
柳寛順烈士を新紙幣のモデルに最も相応しい女性人物として挙げています。
その理由として、
柳寛順烈士は独立運動家として国家のために命を捧げたということでした。


